岳辺田

特派員便り 岳辺田郷から

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    キーマスター
    人口/世帯数 697人/229世帯  2010.09.30現在 面積 2.04k㎡
    概要  東は、波佐見富士とも呼ばれる岳の山を中心にして山々が連なり、その麓を南北に県道が通り抜け、県道に沿って人家が立ち並ぶその西側には、波佐見川に囲まれるように田んぼが広がる地域の姿が、そのまま地名となったのが岳辺田郷です。

    明治29年(113年前)に作成された文書に、岳辺田の世帯数が87戸と記録されています。その後も大きく変わることなく、昭和40年頃までは90戸前後の世帯数で、ほとんどの世帯は農業が中心でした。この頃から日本の経済も急速に成長が始まって、農業の近代化が盛んに叫ばれるようになり、波佐見・川棚地区県営圃場整備事業が始まりました。

    岳辺田の水田も山間部を除き、すべて30アール区画となり、前後して波佐見川の護岸工事も完成し、かつての「平瀬田原」の風景は一変しました。

    その後、水田の一部が農用地から除外され、さらに県道の新設や一部は1ヘクタール区画の水田となって現在に至っています。農用地から除外された水田では、宅地造成が始まり、住宅が次々と建てられています。

    また、農業も大きく変わり、水田は50ヘクタールと以前に比べて7割程に減り、農家も高齢化などで減り続けていますが、現在は27戸の農家で集落営農体制が整備されて、最新鋭の大型農業機械を駆使して活気あふれた水田農業が展開されています。

    一方、岳辺田は歴史も古く、語り継がれた史跡が数多く残っています。その中で、20年前に発見された「INRI銘入り石製十字架」を紹介します。(写真)

    これは、民家の裏山崖面の穴の中から見つけられたもので、自然石の四面に十字架が線刻され、そのうちの二面には「INRI」の文字が彫られています。ラテン語の頭文字で「ナザレのイエス ユダヤの王」を意味するのだそうです。東前寺の近くで発見されたこの自然石が、時を隔てて私達に何かを語りかけているような気がいたします。

    施設・史跡   

    地 名
    郷の中央に姿の美しい岳の山があり、その周辺に平瀬田原が拡がっています。江戸前期(元禄のころ)に書かれた大村記には岳ノ辺田とあり、同末期(天保のころ)の郷村記には岳辺田とあります。でも明治初期には辺田郷ともいいました。皿山太神宮にある明治13年に建てられた石灯篭の玉垣に刻まれています。明治新政府は、神道を国教としましたので太神宮も大改修されました。明治22年町村制がしかれた際、正式郷名が岳辺田となり今日に及んでいます。(波佐見文化第3号から転記)

    岳ノ山城跡
    平瀬田原の東南に釣り鐘状の美しい姿を見せるのが岳ノ山(八天岳)で、岳辺田郷というのはこの山名にちなみます。天正7年(1579)大村純忠は、客将渋江公師に平瀬地域を与え、岳ノ山城に築城させて武雄の後藤貴明の侵攻に備えました。「郷村記」には「山の高さ平地より4町ほど、ふもとの東西に流水あり、南西の方に至って険しく、大手は東の方に向き、本丸の広さ640坪、北の方に切り通しがあり、(「元禄旧記」に横4間、深さ2間)五石垣あり、艮(北東)の方に隍(空堀)、元禄旧記に(長さ40間、横1間半)今にその形現存す」と記されています。(はさみ100選ガイドブック、2007.3から転記)
    現在、八天岳山頂には琴平神社が祠られてあります。

    波佐美神社
    岳の山のふもとに鎮座する波佐美神社は、江戸時代までは幸天大明神と称しました。そんの理由は、南北朝が対立した観応
    年中(1350~1351)に彼杵から金屋へ遷座させられましたが、天正2年(1572)キリスト教徒に焼かれ、その後長らくすたれていました。江戸時代になって、大村喜前の時代、元和年間(1624~1643)岳辺田郷馬場(旧波佐見村庄屋近く)に再建され、開眼供養の導師は東前寺を再興した成周でした。その後、寛永年中(1624~1543)に亀井山へ遷り、さらに貞享2年(1683)に今の社地に遷りました。導師は東前寺2世快翁でした。江戸時代までは神仏混合でしたので、中央に阿弥陀如来、左に薬師如来、右に十一面観音が祀られ、東前寺から奉仕していました(「大村記」「郷村記」)。明治3年(1870)、神仏分離令で仏像を廃して、新たに天照大御神、武速須左男命、伊邪那岐命、伊邪那美命の四柱を祭神として、社名を波佐美神社と改めました。(はさみ100選ガイドブック、2007.3から転記)

    参道鳥居

    本殿

         

    御神木
         

    東前寺
    東前寺は波佐見で最も古く、それだけに日本の宗教史を物語るように、時勢によって興亡が繰り返されました。寺伝によると、奈良時代の和銅年間(708~714)に大僧正行基が九州を巡回した折、金屋に一寺を建て「金屋山東前寺」と称したのが始まりとされています。その後6坊12寺が建てられ、東前寺は中央堂として栄えました。金屋の松山城跡前面(今は水田)には「寺屋敷」の古名があり、当時の墓石である五輪塔も出ることから、かってはここに12寺の一つが建っていたと推定されます。戦国時代末期になると、波佐見をはじめ大村領内ではキリスト教が盛んになり、神社仏閣はキリシタンによって焼き打ちにあいます。東前寺も天正2年(1574)に火がつけられ、建物は焼亡してしまいました。しかし、秀吉、家康の禁教令によりキリスト教が禁止されると、大村藩主大村喜前はキリスト教をやめて仏教徒となり、キリシタンによって焼かれたお寺を再建していきます。波佐見でも村の武士(郷士)に命じ金屋に東前寺を再建させ、佐賀県塩田の常在寺から成周法印を招いて真言宗をひろめさせました。寛永6年(1629)に東前寺は、金屋から岳辺田郷平瀬の現在地に移し、寺領14石余りが与えられました.境内に亀の形をした岩があり清水がわき出るので、「亀井寺東前寺」といい真言宗です。明治の初めは神道で世直しをする政策がとられましたが、行きすぎて、お寺をこわし仏教を無くしてしまえ(廃仏毀釈)という風潮になりました。その中で東前寺も明治3年(1870)に一度廃寺となり、残った建物は明治7年(1874)から平瀬小学校として利用されました。仏教を排斥する嵐がおさまると信徒たちは、東前寺を再興しようと務め、明治14年(1881)に本堂が再建されて、今日に至っています。以上のように、東前寺は悠久の時の中で浮沈を繰り返してきましたが、人々の強い信仰心によってその命脈は保たれてきたのです。(はさみ100選ガイドブック、2007.3から転記)

    亀井山東前寺山門 九州八十八ヶ所66番札所            

    本堂

     

    太子堂

     

    子安地蔵尊建立之碑

    奥の院   

    芭蕉句碑
    東前寺参道の石段を上がった境内に、「鶴の巣もみらるる花の葉しごかな」芭蕉翁の句碑が建っています。この碑は裏面の刻字から、連香舎到右が発起主となり四浦連衆(上、下波佐見、川棚、宮村)の俳句仲間に呼びかけ、東前寺12世権僧都法印寛龍が供養導師となり、寛永8年(1796)に建てたことがわかります。蕉門といわれる芭蕉の流れをくむ俳人たちが師の百回忌を記念して建てたのが,この碑です。(はさみ100選ガイドブック、2007.3から転記)

    庄 屋 跡
    応仁の乱後百数十年続いた戦国争乱の世は、関ヶ原の戦いでおさまり、徳川幕府のもと平和がもどりました。大村藩は純忠の代に基礎が固められました。初代藩主喜前は秀吉、家康から領土安堵を許され、取り潰しや転封の多かった時も変わることなく明治に及びます。世の中が落ち付くと、政治や制度、産業、文化に力が入ります。大村藩は早くも慶長十年(1605)領内の区画整理をし、四十八か村としました。その一村が「波佐見村」です。村役人の初めは「肝入り」(漁村では問)でキリシタン探しが役目でした。寛永八年(1631)に「庄屋」と改められ、キリシタン探しは幕末まで「絵踏み」などで続きますが、年貢米の取り扱いが主になりました。波佐見村の庄屋は平瀬におかれました。村全体からは南に片寄りますが、そのころは田や民家の中央だったのでしょう。庄屋の位置は「庄屋より酉(西)の方西前寺川まで二町四十間=290米」「庄屋より辰の方(東南東)に東前寺あり」とありますのでわかります。今は圃場整備と河川改修で跡かたもありません。藩主の代がかわるごとに幕府から下される朱印状には、大村領四十八か村(その一村は波佐見村)とあり、これが公式でした。(波佐見文化第3号から転記)
               

    丸尾の一里塚
    川棚からの波佐見往還(道路)は、柳谷から丸尾へと曲がっていました。丸尾には江戸時代に築かれた一里塚があったのです。「道端左右に石塚あり、塚の上に松樹一株あり」とは江戸後期の有様です。丸尾の一里塚は川棚の幸秀庵一里塚から一里の道程を示し、舞相の一里塚へとつづきます。明治になって石塚は無くなり大木となった一本松はそびえていましたが、それも戦後枯れ、ただ旅人が喉をうるおした駅馬に水を与えた井戸の名残だけとなりました。(波佐見文化第3号から転記)     一里塚と新しく植えられた一本松


    井戸の名残

    宝泉寺薬師様
    風泉寺の小高い山の中に薬師様は祭られています。「宝泉寺薬師 天平十六年 義弁僧都 波佐見に来錫、十二寺六坊を建立したち時、この地に宝泉寺を建つ。薬師如来を本尊とする。爾来、十二月十二日を祭日として今日に至る」と記載されています。(岳辺田郷誌から転記)

    宝泉寺参道入り口                     
    宝泉寺薬師様

    清正公様
    「神体木座像中彩色 東泉寺勧請 例祭六月二十四日 田中長大夫屋敷内一手祭」 石祠に「文化十一甲戌年六月吉日田中喜蔵正員敬立」とそれぞれ記録されています。聞くところによると、最初は増田正俊さんの敷地内にあったが、後に現在に慰霊碑の場所に移され、さらに現在のように、しもの会堂に遷座されています。現在、郷内の日蓮宗の方々により、毎年お祭りが行われています。(岳辺田郷誌から転記)
               

    正行(しょうぎょう)霊神
    墓碑には、明治三十二年三月三十一日と刻んであります、建立 中山 田崎貞治 としてあります。祠の中には琵琶を形どつたお礼のお供えが何時も飾ってあります。願成就のためのものでしょう。場所は柳谷から梅高野へ登る途中の墓地の付近です。正行様はあちこちを廻りながら、琵琶の音を合わせて物語をする、いわゆる琵琶法師で、たまたま柳谷付近を通りかかった時難病に罹り、土地の人々の手厚い看病を受けたが、ついに亡くなってしまいました。その息を引き取る前に、「大変お世話になった。自分を祭ってもらったらお礼に、願かけしたら腰から下の病気は直してあげましょう。」と言われたそうです。近くの人の話によりますと、大変に霊験あらたかで地元の人はもちろん、遠方の人まで願かけする人が多く、お礼のお供えを持って参拝する人が絶えないそうです。(岳辺田郷誌から転記)

    正行霊神様参道入り口


    正行霊神様

    おまん様
    「おまん様」は梅高野の楠本様方の裏手におられます。従来は権現様と呼び、永富家でお祭りされていたそうです。昭和六十一年頃、茨城の女性の方から次のような便りがあった。「神様が長崎のおまんの神様にお参りに行くようにいわれた。その神様は彼杵神社より西北の地小峰様と呼ばれる所で、社は幅三尺・奥行き三尺・トタン屋根で、車の通れる人道あり、行けば分かる。」と、早速この「おまん様」のことを知らせたところ、その神様が「よく分かりましたね。そこです」とおっしゃったとのことで、七月二十九日(この日は、おまん様の命日)に行者の方と共に見えられました。案内しますと、行者の方が「神様にお伺いをしてみましょう」と言われ、広げた風呂敷に座り、「おんたらた たの たの たの」とお題目を三回唱えられると、お腹から腰へとお加持が始まり「ここですよ、ここですよ」おまん様の霊がおっしゃったそうです。その茨城の女性は、あまりの嬉しさに泣きながら幾度も幾度もお祈りをし、「これでやっと念願がかない肩の荷が降りました。心おきなく茨城へ帰れます。」と言って帰って行かれました。それ以来、梅高野の方々が「おまんの神」として崇敬し、毎年十二月二十日に例祭を執り行っておられます。(岳辺田郷誌から転記)
         

    郷内にある記念碑
    1開墾記念碑---内木場の上の茶園の中にあります。
    2用排水路記念碑---丸尾の防火水槽近くにあります。
    3圃場整備記念碑---温泉の対岸桜堤のしたの波佐見庄屋跡に建てられています。
    4岳辺田林道の碑---川内へ通じる林道の途中、琴平神社への参道入り口に建てられています。
    5片淵井手改修碑---片淵にある平瀬田原灌漑の用水場の所に建てられています。
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    通信(行事)  

     

    名物・自慢・達人
    写真   八天岳頂上

     八天岳登山口


    琴平神社鳥居

    八天岳頂上 琴平神社


    八天岳頂上からの展望

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